地図をつくらない

余生というにはみじかく、夏休みにしては長い

やりきれなす

乾くるみJの神話」読了。

途中から、偏執的な中学生が書いた小説かとおもった。刊行が98年ということで、リアルタイムであれば(それこそぼくは14歳だ。なお作者は当時30代半ば)受け取り方はまたちがうのかもしれないけれど、視点人物ふたり(女子高生と20代後半の女性探偵)の感情も言動もひどく幼稚かつ平坦におもえてしまって、読後に残った印象としては終盤の(笑いどころ)「きえええっ」くらいしかない。「イヤアアア!」「グワアアア!」のあのニンジャ・ノベルのがぼくにとっては数層倍ましである。

はたしてこの作品はいったいなんだったのだろうか。

90年代中盤から00年代にかけての真本格ミステリ、あるいは新本格ミステリ的なもの、もしくは当時新本格ミステリのイトコくらいに分類されていたもの、は、今となれば歴史的な文脈のうえでオーセンティックとみなされる作品においてもかなりラノベ色が強かったり、方法論としてのビルドゥングス・ロマンというよりは様式的なジュヴナイル性をまとっているケースが少なくないとおもうのだけれど、なんというか、ぼくが受け取った「Jの神話」の居心地の悪さ、みたいな感覚はなにに起因しているのかしら。

作者はすごいがんばって書いたんだろうなー、とはおもった。

うん。読んでてそこは感情移入しそうになった。

文春校正班がうっかり見落とした(?)誤字とか、ふつうそこツッコむやろという数々の表現の重複なんかも、もしかしたらすごいがんばったがゆえに「オーケーもうこのままでいこうぜ…」となったのかもしれない。

しかし、年に一度出会えるかどうかというくらい、自分にとって特殊な意味ですごい作品だった。たしか前は桜庭一樹だったとおもうけど。

おつかれさまでした、とつぶやきつつ、明日のゴミの日に出します。ごめんなさい。こういうの好きなひともいるだろうからこの一冊を世の中から抹殺してしまうことは一種の罪であるのだけれど、ぼくの手前勝手な美意識(趣味は思想で思想は趣味!)はこの作品の読者を自分の手の届く範囲でこれ以上増やしたくない、とギャーギャー喚いている。

 

どうせなら、作者が偏執的な中学生だったならよかったのに。